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信仰とは・・・

2006年03月27日

これについては、さまざまな意見があると思う。

自分も信仰を持つものとして、自分の中に培われてきた想い(考え?)があるのだけど、

まとまっているというより、イメージ(感覚)としてあるために言葉にしにくいところがあったりする。

今日、たまたま、「そう、それそれ!それがいつも言いたいのよ」って言葉に出会えたので記録。

信仰とは、ひ弱な自分への慰めではない

自ら山を作り、挑戦し、夢を掴むための原動力!


世間的には、「癒し」とか「慰め」というイメージが強いし、それを主とした宗教も多いと思うけど、

自分は、今自身が生きている社会に根ざし、現実から離れることなく、

各人のもつ悩みや課題に挑戦し、克服していくといった、もっと静よりも動なもの

生きるというよりも「生き抜いていく」ための原動力になるようなものと思ってたりする。

不幸とは、困難の大小や、障害の多さによって決まるのではない

困難や障害に負けてしまう(自分は不幸だと諦めてしまう)ことが、不幸なんだ


と、自分の根っこの部分にあるのは、信仰のせいかもしれないな。。。


まぁ、それで片付けば、精神論で済む話で、宗教なんざ要らないと思う。

でも原動力になる以上、信仰には「力」が必要なわけで、

力によって得られた体験がなければ、それを信じられないわけで、

信じられなければ、当然ながら、原動力にはならないわけで(なんかわけ分からなくなってきた)


ま、とはいえ、自分はまだまだ弱い。

現実に負けてしまうことだってあるし、逃げたくなることだってある。

失敗も多いし、落ち込むことだってある。


でも、そういうときって、自分の中から信仰がなくなっている時なんだよねぇ。

不思議に思われるかもしれないけど、しんどい時って、祈れないんだよねぇ。

辛いからこそ祈れると思われそうだけど、意外とそうでもない。

しんどい時は、なにもしたくない、それが実際だったりする(少なくとも自分はね)


信仰が癒しなのであれば、信仰に走りやすいかもしれない。だって楽になれそうだもの。

でもそれって、ちょっとした逃げのような気もする。リフレッシュも大事だとは思うけど。

自分の考える宗教というものが、自分のもつ信仰が、

「自身の弱い生命(魔)との攻防」ゆえに、

すごく辛いときや、精神的にも肉体的にもしんどい時「やりたくない」って離れてしまうのかも。。。


辛いときにこそ、果敢に挑戦する。そこにこそ人間としての成長はある。

いかなる時でも、そういう姿勢を失わないようにしないといけない。

信仰を貫くって、家に何か祭ってあるとか、毎年お参りに行くとか、

そんな形式的なものじゃないと思うし、簡単なことじゃないと思う。

常に自分自身との戦いだし、自分の中で完結するような自己満足であってはならない。

いかに自らを成長させ、それぞれの立場で、社会に貢献していける自分になれるか。

ほんと、信仰を保つって一筋縄じゃないけど、

だからこそ、自分を成長させることができるし、家庭や社会をも変えていける力になるのかも。


ほんとは、もっと深い次元の話なんだけど、難しいね、やっぱ汗


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Posted by とおるぱぱ at 00:09│Comments(0)G-Activity
 
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